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「もうっ、ヨーセーなんて呼ばないでよ!」
15歳のシェリル・ノームはドレッサーの前で、ヘアメイクアーティストに噛み付いていた。
困り顔で宥めにかかるヘアメイクに目配せすると、グレイス・オコナーはしゃがんでシェリルに目線の高さを合わせた。
「流行ってるみたいね……」
グレイスの言葉は、マクロス・ギャラクシー船団の芸能界にデビューしたシェリルが出演したラジオ番組のことを指している。

デビュー当初、シェリルのキャッチコピーは『奇跡のナチュラルボイス』だった。全身天然のままの肉体と資質をフィーチャーしていたためだ。
ところが、ベテランDJペリス・クプラーをパーソナリティに据えたラジオのバラエティ番組に出演した時に、ペリスからからかい気味に妖精と呼びかけられた。
ラジオは、この時代マイナーなメディアだったが、他の作業をしながら聴取できるため、芸能界の周辺で働くプロフェッショナル達にリスナーが多い。

「昨日の企画会議で、シェリルのキャッチコピーを銀河の妖精に変えようかって、提案が出たのよ」
グレイス!」
シェリルは目尻を吊り上げた。
「どうして? 妖精って素敵なイメージじゃない?」
「子供っぽくてイヤ。こんなのでしょ?」
シェリルが携帯端末で呼び出したのは、透明な羽を持つ少女、ピーターパンに登場するティンカーベルだった。
「妖精って意味が広いから、いろいろ在るわよ。怖いのも、美しいのも」
グレイスはインプラント端末を経由して古典のデータベースにアクセスした。立体映像で、シェリルの目の前にいくつものイメージを表示させた。
いたずらっぽい少年の姿をしたパックと、威厳のある妖精女王ティタニア、シェイクスピアの『真夏の夜の夢』から。
水辺に現れる馬のような姿のケルピーはイギリスの昔話から。
ギリシャ神話のナイデス、ネレイドー、ロシアのルサールカ、水の精霊たちは美しく若い女性のイメージだ。
「うーん…」
シェリルは投影された画像を指先でスクロールさせたり、拡大表示して詳細情報を眺める。
「ピンと来ない?」
「うん」
「銀河の妖精……スケールが大きいし、ギャラクシー船団出身ってすぐに分かってもらえるわ。妖精には、変幻自在なイメージもあるから融通も利く。悪くないと思うんだけど」
グレイスの言葉は、いつも正しい。シェリルは理解していた。
シェリルの養育者であり、今は敏腕マネージャーとして働いているグレイス。彼女の言葉には、常に膨大なデータの裏打ちがあるし、彼女の提案は最適解だ。
(でも…)
正しい事が、いつも受け入れられるとは限らない。
シェリルは幼いなりに、グレイスに欠けている部分を感じ取っていた。
グレイスの思考には、飛躍が無い。
正しい発声、美しい和音だけでは、人は飽きてしまう。均質化された量産品ばかりになる。
音楽は、それでは駄目だ。
どこかに不協和音やズレが無くてはならない。
シェリルは、とりあえずの妥協案を口にした。
「ちょっと考えさせて、グレイス」
「はい、シェリル」
グレイスは、打ち合わせのため楽屋を出て会議室へ向かった。
会議室とは言っても、全員が集まる部屋ではない。インプラントによる情報サイボーグ技術が普及したギャラクシー船団では、盗聴対策が施され高強度秘匿回線が利用できる小部屋を示す。

ヘアメイクを済ませたシェリルは、グレイスが残していった画像アーカイヴのインデックスページを漫然と眺めていた。
空中に表示されたサムネイル画像を、指で弾き飛ばして遊んでいる。
仮想のデスクトップの上を、サムネイルが飛んでいく。
その様子が面白くて、無心に遊んでいた。
サムネイルは静止画がほとんどだったが、中には動画も混じっていた。
シェリルの念入りに整えられたネイルの先にひっかかったのは、動画だった。
拡大表示させる。
舞台の上で、藤の花を担いだキモノの娘が踊っている。黒くて光沢のある大きな帽子(笠と言うらしい)の下からのぞく美貌は、シェリルにとって馴染みの無い化粧を施してあった。
「えーと、フロンティア船団?」
動画の付属情報から撮影地が他の移民船団であることを知る。
長い袖を翻し、滑るように舞台の上で舞う娘の姿に、息を止めて見入る。
5分ほどの短い動画だったが、何度も繰り返し再生する。
「あら、面白いもの見てるのね」
グレイスが戻ってきた。
「これ、何?」
グレイスはインプラントを利用して動画に組み込まれたリンクを辿り、シェリルより多くの情報を得る。
「藤娘…日本舞踊だわ」
「これも妖精?」
「ええ。藤、Westeria floribundaの妖精が舞っているの。…まあ」
グレイスは目を丸くした。何でも知っている敏腕マネージャーにしては珍しい事だ。
「これ、男の子だわ。シェリルと同い年の」
「ふぇっ?」
シェリルは驚きのあまり、変な声をたててしまった。
「こんな綺麗なのに?」
動画をさらに拡大表示させて、大画面で舞を観る。
「ええ。早乙女アルト……歌舞伎の伝統を継承する家の出身なのね」
「カブキって、なあに?」
「伝統芸能のひとつで…今から400年前頃に様式が確立した演劇や舞踊のことよ」
「400年? すっごーい」
グレイスは関連する動画を検索し、シェリルの前に表示させた。
楽屋で藤娘の拵えを解くアルトの姿が表示される。被り物を取り、化粧を落とすと、美しく整った少年の素顔が現れる。
「どうやったら、男の子が女の子になれるの?」
シェリルの素朴すぎる質問に、グレイスは返答に困った。
「衣装とお化粧、動き方のトレーニングを積んだのでしょうね。伝統技術だし、フロンティア船団はインプラントは違法だから外部記憶でレッスンしてないはずよ」
グレイスの返答は、シェリルが欲しかった答えとは違ったようだ。いまひとつ腑に落ちない表情のまま、シェリルは動画を見つめ続けた。
「これも妖精なのね。こういう妖精なら悪くないわ」
銀河の妖精、そのキャッチフレーズがシェリルによって正式採用された瞬間だ。

2010.03.11 
「フェアリー9、個体名シェリル・ノーム。精神面で安定しつつあるが、まだ言葉を取り戻せていない」
電脳空間のグレイス・オコナーは、レポートをまとめようとしている。
冒頭を言葉にして、さて、その後はどのように続けようかと思案した。
グレイスの意識は、仮想的に作り出された空間の中で、いくつものリソースやデータベースにアクセスしている状態だ。
並列的に表示されたデータの内、幼いシェリルの行動を逐次記録した映像ファイルを強調表示する。
「スラムで保護してから半月、身の回りの世話をする看護師には少し慣れたものの、身体接触を忌避する傾向は強い。特に抱き締められるのを嫌がる……」
動画を眺めながら、気が付いた事を箇条書きのように言葉にした。
まだ、シェリルは与えられた部屋から出してもらえない。
人為的にV型感染症を罹患させた直後で、身体状況をモニターするためと、スラム暮らしで失われたコミュニケーション能力を回復させる必要があった。
「あら?」
スモック姿のシェリルが、幼児用の低いテーブルに食器や、玩具の類を並べていた。
並べ終わると、スプーンで叩いて音を出している。
耳を澄ませて聞いていると、街角でよく耳にするコマーシャルソングのメロディーになっていた。
「……絶対音感」
シェリルは、生まれながらにして音の高低を聞き分けて音符に置き換える才能を持っているようだ。
並べている物は、きちんとドレミの音階に合うものだけを選び出している。
「これは、良い兆候と言える。リトルクィーン仮説によれば、歌がバジュラとのコミュニケーションにおいて重要な役割を果たす可能性がある」
この文章と、第117調査船団において記録されたランシェ・メイとランカの生体から発振されるフォールド波に関するデータをリンクさせる。
惜しむらくは、ランカがバジュラと直接コミュニケートできる人間“リトルクィーン”だったという可能性に気づくのが遅すぎた。
その後、調査船団がバジュラに襲撃されたために、きちんと計測されたデータは、あまりにも少ない。リトルクィーン仮説が仮説に留まっているのも、そのためだ。
「やむを得ない事情ではあったのだけれど、かえすがえすも惜しいわ」
蓄積されたデータを閲覧しながら、回想に耽ってしまう。
グレイスは意識を現在に振り向けた。
「フェアリー・シリーズに求められる資質は、歌に対する卓越した集中力。安定した感情指数を支える自信。リトルクィーンの歌と合わせて、歌手として育成するのが妥当であろう」
ここまで記述して、思いついたアイディアをメモする。
「プロの歌手であれば、移民船団や植民惑星を巡るツアーという形で行動することにより、オペレーション・カニバルにとって、便利この上ない隠蔽となるであろう」
このアイディアを最終的にレポートに組み込むかどうかは、保留しておくことにした。
今後の見通しを判り易く図示して、レポートの結論とした。

全員がインプラントネットワークによる即時通信網でアクセスしていても、権力者という人種は部下を呼びつけなければ気が済まないらしい。
有線による通信はもちろんのこと、電磁波を完全に遮断し、情報的にスタンドアローン状態の会議室に集まったオペレーション・カニバル指導部に向けて、グレイスは自分の担当する分野についての説明を行っていた。
「以上のように、フェアリー9の状況は、おおよそ想定通りです。問題となっているのは、バジュラ・クィーンの神経網にダイレクトにアクセスできるインターフェイスの開発であります。これは予定の15パーセント程度しか進捗しておりません」
「停滞の理由は?」
質問者の姿はグレイスの義体が有している高度な視覚センサーであってもシルエットしか捉えられない。声も男女の区別がしにくい音程に加工されていた。
「バジュラの神経と接続する物理層については完成しています。しかし、バジュラの大型戦闘個体の貧弱な神経網では問題ありませんが、格段に情報処理能力の高い女王、並びに準女王クラスの個体の神経網がどのような様態なのか、現状、推測するしかありません。可能な限り早急に準女王級の個体を入手する必要があります」
「了解した。ハンター部隊の尻を叩こう。しかし、フェアリー部隊も急がなければならない。マクロス・フロンティア船団のコースは知っているだろう?」
「はい」
グレイスは脳裏に銀河系全体と、各移民船団の現在位置と未来位置を描いた。
「フロンティアには、リチャード・ビルラーが居る。ゼントラーディの出身でありながら、企業家として端倪すべからざる相手だ。少なくとも、創造性については平均的な地球人類と比べても優れていると言える」
上司達は、ビルラーもバジュラクィーンの惑星を探していると推測していた。ビルラーと、彼の企業グループSMSの影響下にあるフロンティア船団の予定航路は、オペレーション・カニバル指導部が目指す宙域と重なっていた。
バジュラ・クィーンの星が存在すると推定されている宙域をゴールとして、密かに、しかし熾烈なレースが繰り広げられている。
「承知しています」
「時は人を待たない。ところで、グレイス・オコナー技術少佐」
「はい」
「これまでの功績により、技術中佐へ昇進した。おめでとう」
「ありがとうございます」
グレイスは内心で溜息をついた。与えられた1000人規模の研究グループが、ようやく有機的に機能するようになったのだ。昇進によって部隊の編成が変わったら、また一から連携を作り上げなければならない。
一方で、使用可能な予算規模が増えたことで、研究の進展を加速させる見通しも生まれた。
「現在、貴官が率いているフェアリー部隊は、呼称をそのままに増強される。成果を期待している」
「はい、微力を尽くします」
今から果てしない雑事の連続が待っている。
研究に集中できるよう真っ先に有能な幕僚のチームを手配しなければと、グレイスは思った。
(Dr.マオ・ノームも同じ苦労を味わったのかしら?)
かつての上司、第117調査船団を率いた恩師の姿を思い浮かべる。第一世代マクロス級を旗艦とする巨大な船団は、今グレイスが率いているチームに比べて桁違いに参加人数が多い。
(バジュラの襲撃によって船団が崩壊した時、マオは苦しまずに死んだのかしら?)
今更、考えても詮の無い事だが、苦痛を感じる前に死んでいて欲しい、とグレイスは願った。
「昇進に際しまして、お願いがあります」
気持ちを現在直面している課題に切り替えて、グレイスは上司たちへ向かって言った。
「何か?」
「ブレラ・スターンを、こちらの駒として欲しいのです」
「ブレラ……ああ、リトルクィーンの兄弟か。構わないが、彼は現在、高度義体化を済ませ、今後は適性を勘案し、パイロットコースへと進ませる予定だ。彼が直ぐに必要か?」
「いいえ。しかし、ビルラーが押さえているフロンティア船団には、リトルクィーンが居る可能性があります。彼女の兄であるブレラは、切り札になるかも知れません」
「それでは、作戦がフロンティア船団方面で展開される段階で、オコナー中佐の指揮下に入れよう。これはフェアリー部隊指揮官である貴官からの公式な要請として記録されている」
「ありがとうございます」
グレイスは一礼した。

会議から解放され、シェリルが収容されている病室へと向かう。
病室のドアを開けると、スモックを着たシェリルがハッと振り返った。立ち上がって、ベッドの向こう側に隠れる。
「恐がらなくてもいいんですよ」
その様子を見て、グレイスは心のどこかに残っていた緊張感がほぐれるのを感じた。
それまでシェリルがいた場所を見ると、幼児用のテーブルにコップや積み木、玩具の類が並んでいる。
今、シェリルがお気に入りの遊びをしていたようだ。
グレイスは資格データに、ならべられた物体の固有振動数を重ねて表示させた。
左から順番に叩くと、よく耳にする幼児番組のテーマソングになっている。
「こうやっているのね」
グレイスはテーブルの前にひざまずくと、テーブルの上にあったフォークを手にして叩いた。
ベッドの物影からシェリルがのぞいている。
視線を意識しながら、グレイスはゆっくりと叩く。
最初はならべられた順番でテーマソングのメロディを鳴らした。
次に積み木の位置を変えた。
シェリルの視線がひたとグレイスの手元に吸い寄せられている。
その視線を意識しながら、グレイスはフォークを振るった。
メロディはさっきのテーマソングと同じだったが、転調している。
シェリルが持っている絶対音感なら、この違和感に気づくはずだ。
大きな青い瞳がグレイスの手の動きを追った。顔は無表情だったが、瞬きの回数が減っている。
「さあ、シェリルも演奏してみますか?」
フォークの柄をシェリルに向けて置いてみる。
一瞬だけ、ベッドの陰から身を乗り出そうとするが、直ぐに物影に戻った。
いくつか、ならべ替えのパターンを見せたが、シェリルは出てこようとはしなかった。
「今日は、ここまでにしますね」
グレイスは病室を出た。

「今週だけで、2個小隊が損耗した」
バジュラの個体を手に入れるハンター部隊の司令官、チャドウィック中佐が言った。黒い肌の青年の姿形だが、グレイスと同じく義体なので本来の年齢は判らない。
「戦果は?」
グレイスの切り返しに、チャドウィック中佐は憮然として続けた。
「ビショップ級の母艦タイプ・バジュラの遺骸を入手した」
「素晴らしい。しかし、準女王級個体を捕捉したのではなかったのですか?」
「大量の群れに逆襲された。戦死も出た」
「引き続き、入手の努力を」
「犠牲が大きすぎる!」
「対バジュラ戦術の確立は、そちらの仕事であって、私のマターではありません。欲しいのは結果だけです」
グレイスは冷やかに返した。
インプラントネットワークを介したやり取りでも、憎悪というのもは伝わる。
チャドウィック中佐からの沈黙は、雄弁にグレイスに対する反感を語っていた。
「報告は以上でしょうか?」
「以上だ」
秘匿回線による直通回線が切断された。
(オペレーション参加各部隊に、この作戦の意義が徹底されてないのは、問題だわ)
意識を物理空間に振り向ける。
グレイスの義体はシェリルの病室に居る。
今日は、シェリルはグレイスから隠れようとはしなかった。
代わりに幼児用のテーブルを前にして、ならべたものをスプーンで叩いている。
グレイスは微笑んで見守った。
シェリルが一心に叩いているメロディーは、母の日に向けた“お母さん、ありがとう”を繰り返すだけのコマーシャルソングだった。
「まあ、もしかして、私がお母さん?」
シェリルは手を止めて頷いた。
「気持は嬉しいけれど、私はグレイス。あなたのお母さんではないのよ」
シェリルはグレイスをじっと見上げた。不安そうに瞬きをしている。
「私はグレイス・オコナー。貴方はシェリル・ノーム。シェリルは、この世に二つとない、素晴らしい才能の持ち主なんですよ」
グレイスはシェリルの様子を見ながら、腕を伸ばして、そっと抱きしめた。
小さなシェリルが、そっと身を寄せてくる。
「貴方はシェリル」
「シェ……」
最初、その声はあまりに小さくて、グレイスには、単なる息づかいかと思えた。
「シェリル・ノーム?」
グレイスが初めて耳にした、シェリルの声は愛らしかった。
「そうよ、貴方はシェリル」
「シェリル……シェリル・ノーム」
「ええ、ええ」
シェリルはグレイスの腕の中で、何度も自分の名前とグレイスを繰り返して発音した。
遅遅として進まないオペレーション・カニバルの中にあって、小さな達成感と幸せがグレイスの心を満たす。

グレイス・オコナーが残した公式の記録によれば、この日を境にシェリルは爆発的に語彙を取り戻していった。

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2009.05.06 
第117調査船団遭難の報を受けて惑星ガリア4宙域に派遣されたのは、マクロス・ギャラクシー船団とマクロス・フロンティア船団の合同チームだった。
全身に重度の火傷を負い、瀕死のグレイス・オコナー博士がギャラクシー船団の救難船に収容された。この偶然は、その後の人類史の上で興味深い展開をもたらすきっかけとなった。

体が軽い。
世界のあらゆるものが、この上なく明確に捉えられる。
こうして、ギャラクシー船団の中心メインランドの街角を歩いていても、外部記憶と補助AIの働きで、目にする全てが名前・メーカー・価格・物性まで把握できる。
ゼロタイム通信とインプラントを組み合わせたマン・マシン・ネットワークで拡張された知性はグレイス・オコナーに知的な興奮をもたらした。
(そうよ、これこそ私が目指しているもの。人類全てがこの恩恵を享受できるようにするのよ)
酷く損壊した肉体を捨て、義体に置き換えたばかりのグレイス。その足はまっすぐにスラム街に向けられていた。
怠惰と倦怠、喪失感、敗北感。
負の感情が吹きだまった灰色の街並を見て、鼻を鳴らした。
「ふっ……」
グレイスにとっての新天地、ギャラクシー船団の汚点だと思う。
(まあ、いいわ。いずれ綺麗さっぱり片づけてしまいましょう)
来るべきその日の事を考えて高揚感を味わった後で、気持ちを切り替える。
今は探し物をしなければならない。
街頭監視カメラのネットワークにアクセス。人相検索によりターゲットを捕捉。
ガードマンを務めるサイボーグ兵に背中を守らせて、スラム内部へと足を踏み入れた。
スラム内部は、外から見ているより、活気に満ちていた。
どこから材料を調達してきたものか、食べ物を売る屋台もある。
立ち上る生臭い臭気にグレイスは顔をしかめた。嗅覚を遮断する。
嗅覚情報によると銀杏の実を茹でているらしい。
緑地公園に植わっているイチョウから採集したのだろう。
ブテチゲと呼ばれる鍋料理を出している屋台もあった。具材には歯型がついているものがあり、明らかに残飯をかき集めてきたものだ。
その隣では携帯端末を売っている店もある。廃棄された端末をレストアして使っている。充電器も時間単位で貸しているらしい。
ギャラクシーの法律では不法行為なので、インプラントでネットワークにアクセスし、治安当局に通報しておいた。
物々しいボディーガードを連れた、スーツ姿のグレイスは、スラムの住人たちから胡散臭い眼で眺められていた。
誰も話しかけようとはしない。
スラムに外部の人間が侵入する時は、決まって良くないことが起きる。
積極的に関わりたくはない。
グレイスの方も、彼女の計画にとってどうでも良い人間は、そこに存在するだけの物体に過ぎない。
しばらく歩いているうちに、目標にしていたビルを発見した。今にも崩落しそうなぐらい亀裂の入った壁面を保護ネットで覆っただけの危なっかしい建物の1階では、驚くべきことに飲食店が入っている。
(監視カメラの情報だと、ここにいるはずなのだけれど)
グレイスは店の裏手に回った。
薄暗い足元にガレキと得体の知れない油染みのようなものが広がっている。ガレキはビルの壁が剥がれ落ちたものだった。
視覚を感度増強モードにした。
残飯とさえ呼べないような異臭を放つ食べ残しが詰め込まれた袋がいくつも積み上げられている。
その一つを破って、食べられそうなものをより分けている小柄な影。
“それ”の背中を覆う灰色の塊のようなものは、伸び放題に伸びた髪だった。
シェリル? シェリル・ノーム?」
“それ”はビクッと背筋を震わせると顔を上げた。表情に乏しい青い目がこちらを見る。
シェリル……私は、あなたのお祖母さんの知り合い。あなたをここから助けに来ました」
しゃがんで手を差し伸べるグレイス。
しかし、小さなシェリルは“ここから助けに来た”という言葉に過敏な反応を見せた。
立ち上がり、小さな手足を精いっぱい動かして路地の奥へと走っていく。
キュン。
何かが空気を切る音がした。
ボディーガードが射出式のスタンガンを用いたのだ。電極がシェリルの背中に命中して、ショックを与える。
「何をする」
グレイスの詰問に、ボディーガードは、いかつい顔に何の表情も浮かべずに言った。
「対象の確保を優先しました。ショックは最低限です」
スタンガンをホルスターに収めると、うつぶせに倒れて、微かに痙攣しているシェリルを抱き上げた。
「ラボへ帰る」
グレイスは踵を返した。

研究室へ戻ると、グレイスは意識を失ったままのシェリルをベッドに横たえた。
スキャナにかけて、健康状態などをチェックをする。
「ある意味、奇跡的ね」
グレイスは結果を見て呟いた。
スラムで野良猫のような暮らしをしていたにも関わらず、シェリルの健康状態は良好だった。軽い栄養失調ではあるが、感染症にかかってない。
血液型はαボンベイ。祖母であるマオ・ノームから伝わるマヤン島の巫女の血筋だ。
「素材としては、今までで最上ね。以後、当個体をフェアリー9と呼称する」

現在進行中の作戦『フェアリー』は、より大きな作戦『オペレーション・カニバル』の一部を構成している支作戦だ。
V型感染症を人為的に引き起こし、バジュラとの間にリレーションシップを作り上げる人間“フェアリー”を作り出す。
この時、フェアリーの人格がリレーションシップの形成に大きな影響を与えるため、インプラント技術、洗脳技術などを駆使してグレイスたちに都合の良い人格を作り上げようとしたが、下手に手を加えるとリレーションシップが確立されないことが判明。
この段階でフェアリー1から4が廃棄処分になった。
そこで、フェアリー5から後は、時間をかけて、よりマイルドな人格育成を目指そうとした。V型感染症に罹患した幼児を養育していくのだ。
V型感染症は人類にとって致命的な病だ。しかし、フェアリーとしての能力が最大になるのは、感染症の進行段階が末期になった時。
その為に、症状の進行を注意深く制御する必要もあった。V型感染症抑制剤に関しては軍用の薬剤を開発しているウィッチ・クラフト社が担当している。

「それにしても汚いわね」
グレイスは鋏をとって、シェリルの衣服を切り裂いて脱がせてゆく。
垢にまみれ、あばらが浮き出た裸体が現れる。
「髪も切ってしまいましょう」
長い髪は一つ一つは細く、量は豊かだった。手入れすればフワリと流れる髪になるのだろうが、あちこちでもつれたり、ガムのような粘つく塊で固まっている。
グレイスの痛覚センサーが働いた。
驚いて反射的に手を引くと、意識を失っていたと思っていたシェリルが、診察台から転げ落ち、ラボの物影へと駆け込んだ。
グレイスは自分の手を見る。小さな歯型がついていた。
「噛まれた…」
強化した外皮はその程度では傷つかない。5分もしない内に跡形もなくなるだろう。
グレイスは、ゆっくりシェリルに歩み寄った。
シェリルの怯えた青い目がキッと睨んでいる。
(案外気が強いようね。強くなくては、スラムで子供一人生き残れない、か)
「シェリル」
グレイスは可能な限り優しげな発音でその名を呼んだ。
「お風呂、入りましょう。温かくて気持ち良いですよ」
微笑みかけても、シェリルは縮こまったまま警戒を解かない。
「ほら、いつまでも裸んぼだと、寒いでしょう?」
シェリルは自分の体を強く抱きしめた。
グレイスは、どうしたものかと考えた。外部記憶の発達心理学や幼児教育のデータベースを漁るが、こんな特殊な事例は記載されてない。
結局、思い付きを実行することにした。
「ほぅら、私も裸んぼだから、怖くないですよ」
グレイスはその場で服を脱いだ。かねてからgグレイス自身が抱いていた理想のボディをが現れる。豊かな、しかし大きすぎない胸、くびれた腰、引き締まったヒップ、肉感的な太ももとスラリと伸びた膝から下。
髪を解いて背中に流すと、もう一度しゃがみこんだ。
「ぁ……」
シェリルの唇から小さな声が漏れた。警戒が少し緩んだ。
グレイスはたおやかな腕を差し伸べて、シェリルを抱きしめた。
嗅覚センサーが悪臭を検出するが、遮断して意識に届かない様にする。
素肌と素肌が合わさると、シェリルの体から力が抜けた。
「いい子ね、さあ、こっちにおいでなさい」
グレイスは抱き上げて、ラボ内のバスルームへと運び込む。
シェリルに、ぬるま湯のシャワーをかけて、シャンプーで髪を洗う。
床に流れ落ちた湯は黒く染まっていた。スポンジで肌を擦ると、大量の垢が剥がれ落ちる。
汚れをざっと洗い流すと、グレイスは目を見張った。
まるでドブネズミの毛皮のようだった髪は、赤みがかったブロンドが繊細な色合いを見せている。白人系の要素が多く現れた肌は、肌理細かく透明感のあるものだった。
(宝石の原石)
これから磨きあげれば、どれほどのものになるだろう。
女でありながら、グレイスの心が躍った。
その後、グレイスはバスタブにシェリルを抱いたまま入った。膝の上にシェリルを座らせて、爪の間などの細かい所の汚れをチェックする。
栄養失調のため、シェリルの小さな爪には皺が寄り、先端がギザギザになっていた。
「ここも綺麗にヤスリをかけてあげましょうね」
グレイスがあやすように言うと、シェリルは乳房の膨らみに顔を寄せた。そして乳首を咥える。
「あら…」
無心に乳首を吸うシェリルの表情は安らかだ。
(赤ん坊返り、というものね)
データベースには症例が豊富に揃っていた。不安な幼児は赤ん坊の頃に戻った振る舞いをすることによって、新しく保護者となった大人と関係を作りなおしていくと言う。
敏感な場所から伝わる刺激に、グレイスは目を細めた。
「いいのよ、もっと吸っても……」

その一週間後。
ラボの保育施設にシェリルを訪ねた。
すっかり綺麗になったシェリルは表情が乏しいことを除けば、愛らしい女の子だった。
グレイスを見つけると、小走りに駆け寄ってきて服の裾をギュッと握って見上げてくる。
「こんにちは、シェリル」
薄いピンクのスモックを着たシェリルは、頷くだけで、まだ言葉を取り戻せていない。
「さあ、今日はお薬を注射しますよ」
グレイスはシェリルを抱き上げて、診察台に寝かせた。
「痛くありませんからね。うーんと楽にして下さいね」
グレイスが手にした無痛注射器には、培養されたV細菌を含む生理食塩水が満たされていた。
それをシェリルの腕に押し当て、トリガーを引く。微かな音がして、致死性の病原体を含んだ液体が血管に注ぎ込まれた。
シェリルは大人しくしていた。
幼いながらも整った横顔を見詰めながら、シェリルはゾクゾクしたものが背筋をかけのぼるのを自覚した。
今、この小さく愛らしい生き物の生死はグレイスの手の中に捕らえられたのだ。
完全に。
気がつくと、シェリルの青い目がじーっとグレイスを見つめていた。
ニッコリ微笑んで、シェリルの額にキスする。
「可愛いシェリル」
母親が子供にするお休みのキスというのは、こんな感じだったろうか。
グレイスは自分の幼児期の記憶をさぐった。
そういえば、母親からキスされた覚えがない。

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2008.12.01 
2054年、マクロス・ギャラクシー船団、メインランド。
「メリークリスマス、シェリル
グレイス・オコナーは両手に紙袋をぶら下げて、シェリルのアパートメントを訪れた。
「メリークリスマス、グレイス。なぁに、その袋」
いつも隙の無いスーツ姿のグレイスが、今日は珍しく真紅のパーティードレス姿だった。
「もちろん、クリスマスプレゼントですよ。あら、まだ届いてないのね?」
グレイスは部屋の様子を眺めた。
「届くって?」
「それはお楽しみです……ん、もうすぐ届くわ。シェリル、ドレスに着替えて下さい。ほら、この間買ったピンクのがいいわ」
グレイスはネットワークで配送情報にアクセスした。
「おでかけ?」
12歳のシェリルは目を輝かせた。
「ええ、クリスマスですもの。美味しいもの食べに行きましょう」
話している内に、インターフォンからチャイム音が流れた。
「ええ、どうぞ、入って下さい」
グレイスが対応していると、運送業者が大きな荷物を運び込んだ。
梱包材を取り払って、シェリルの寝室に据え付ける。
「鏡台?」
シェリルは早速シートに座って、三面鏡に姿を映した。
「ええ、そうよ。お化粧は淑女に必要不可欠なものですもの。早く着替えて下さい」
「はーい」
グレイスの言葉にシェリルは弾かれたように立ち上がって、ウォークインクローゼットに入った。
その背中を見送って、グレイスはホームオートメーションにアクセスした。
グレイスの視界に重なって、シェリルの身体データを表示させる。
“受容体ブロッカーは有効ね。身体データは安定している。副作用も最低限に抑えられているし。血液型αボンベイ特有の糖蛋白が作用機序に影響しているのかもしれない。生理学者に分析してもらう必要がありそうね。音感に関しては先天的な才能がある。これはマヤンの巫女の素質なのかしら”
ホームオートメーションはシェリルの体調を細かく記録している。
オペレーション・カニバルの最も重要な駒の一つであるシェリル・ノームのポテンシャル分析は現在のグレイスにとって主要な仕事だった。
「これでいい?」
少女らしいスクウェアネックのミニドレスを身に着けたシェリルがクローゼットの扉から顔を出していた。
「ええ、こっちに来て下さい。髪を編みましょう」
シェリルが椅子に座ると、グレイスはストロベリーブロンドの髪を左右ひと房ずつ編んで後頭部で纏めた。
ヘアバンドで前髪を上げると、紙袋から化粧品類を取り出した。
「大人なったみたい」
きめ細かいシェリルの肌は、ほんのちょっと唇に紅を乗せ、アイラインを描くだけで映える。
「今度、メイクの専門家を呼んで、お化粧も勉強しましょう」
「ホント!」
「ええ、ボイストレーナーの先生も上達が早いって褒めてましたわ。そのご褒美です」
(あと5年もすれば、きっと誰もが振り返るほど美しくなるでしょうね)
グレイスは身体を義体に置き換えた事で過去のものになった成長と老化を、傍観者の立場で好ましく眺めた。
「ねえ、もっと口紅濃くした方が良くない?」
シェリルが上目遣いでこちらを見上げる。
「それでも充分に綺麗だと思うけど……シェリルのお望みでしたら」
グレイスは淡い色のルージュを瑞々しいシェリルの唇に上塗りした。
「この世に限り無いものが二つあるわ。女の美しさと、それを乱用することよ」
グレイスの言葉にシェリルはもの問いたげに鏡の向こうから見つめてくる。
「ああ、大昔の映画の台詞です」
今、これからまさに花開こうとしている美しさ、それはグレイスの手の中にある。時間をかけてゆっくり育て、この上も無く華やかに散らす。
ゼロタイムフォールド波通信によって、プロジェクトのスポンサーたちと電脳接続しているグレイスだが、この楽しみだけは他者に共有させない。させてなるものか。
「さあ、できました。今日はイタリアンですよ」
「うん」
シェリルはバネのように元気良く椅子から立ち上がった。
両耳には大振りのイヤリングが下げられている。はめ込まれているフォールドクォーツが紫の光を放った。

2059年12月25日。
グレイス・オコナー技術大佐の操縦するVF-27は恒星間の虚無を漂っていた。
ゼロタイムフォールド波通信は、その秘密を手に入れたフロンティア船団や、新統合政府によって傍受されるため、迂闊に使用できない。
グレイスは10年振りで、本当の孤独を味わっていた。
「メリー・クリスマス」
時計を見て、声に出して呟いてみた。
義体の声帯を使ったのは久しぶりで、錆び付いているかのように発音がぎこちない。
有り余る時間を持て余して、過去の記憶を回想していると、いかにシェリルのタグがついた記憶が多かったのか実感される。
「何を間違ったのかしら?」
一つはバジュラ女王がバジュラ全体へ与える影響を見誤っていた事が上げられるだろう。
確かにバジュラ女王の情報処理能力は飛びぬけていて、全銀河のバジュラに影響を与えられる。
しかし、それはバジュラに対して一方的に命令を与えられる、という事ではない。
群体としてのバジュラの判断は、バジュラの群れ全体を一つのネットワーク知性として処理する。その過程はある意味で多数決に近い動きをする。
株主総会に例えると判りやすいだろうか。
バジュラ女王は大株主で強い議決権を持っているが、他の過半のバジュラが反対すれば、群体全体としての行動はバジュラ女王の判断に反する可能性がある。
「そして歌の力」
シェリル・ノームとランカ・リーの歌が、早乙女アルトが着けたイヤリングを通し、バジュラ達に影響を与えた。
「私が思っている以上に本物のシンガーだったってこと」
シェリルの人生をコントロールするのは、これ以上はない楽しみだった。
ある意味で愛。
ある意味で独占欲。
銀河の妖精の生と死は、全てグレイスが握っている筈だった。
だが、コントロールしているはずのシェリルがグレイスの前に最終的に立ちはだかった。
グレイス自身にとっても意外な事に、シェリルの歌声は素晴らしく感じられた。
敵ながら天晴れ、という尊敬の気持ち。
いや、我が子の成長を見届けた母親の心境か。
「勝手なものね…」
シェリルの両親を殺害したのは、グレイスのスポンサー達だと言うのに。
グレイスは起伏のある自分の人生を振り返って思った。
「本当に欲しいものを最短コースで手に入れようとして、却って遠回りばかりしているのかしら?」
ピ!
フォールド波通信に着信。
内容は、次のスポンサーと目している企業からのものだった。
“そちらの提供する情報に当社は何等魅力を覚えない”
そっけない内容だった。
「ふっ」
グレイスは自嘲の笑みを浮かべると、次の星系へと向けてフォールドを開始した。
早く次のスポンサーを見つけなくてはならない。
VF-27のエネルギーも、サイボーグボディのメンテナンスも必要だ。
「今度の星にはサンタクロースが居るかしら?」

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2008.11.14 
シェリルは、今ひとたびグレイスと対峙していた。
シェリル
聞き慣れたグレイスの声は、気持ち悪いぐらいにいつもどおりだった。
「私たちには……フロンティア船団には、あなたが必要なの。もう一度、一緒に仕事をしましょう」
「私は死ぬんでしょう、グレイス。その日が一日、二日延びたところで何が変わるというの?」
ニヒリズムを装った切り口上は、相手の出方を見るために放った言葉のジャブ。シェリルは読みにくいグレイスの表情を読もうとした。
「あなたが、キチンと治療を受けてくれたら、治せる可能性はあるわ。望むなら、サイボーグ化手術も手配できるのよ」
「つまらない取引ね。予想していた答えのうち、一番つまらない選択肢だったわ」
グレイスは少し考えた。
「何をお望み?」
「何も。私は私の欲するものを自分で手に入れる。アンタの手なんか借りなくても十分」
「あら……また熱が出てきたんじゃない?」
グレイスの赤外線視覚には、シェリルの肌が微熱を放っているのを捉えていた。
シェリルは熱くなってきた掌を握りしめた。
「私の本質はアイドル……そう言ってたわね」
「そう。シェリル・ノーム、銀河の妖精の名声は私たちが作り上げたもの」
グレイスが口にした“私たち”には、シェリルが含まれないようだ。
シェリルは唇を笑みの形に歪めた。
「シェリル・ノームのプロデュースは巧くいったけど、ランカちゃんには手を焼いている」
「ええ、正直、困っているの。だから、シェリル……体を壊しているあなたに無理を言って申し訳ないけれど、協力して欲しいわ。ランカさん、シェリルと一緒に歌うと感情指数が安定してポジティブになるの」
「グレイス……アンタはマネージャーとして有能この上なかったわ。だけど、プロデューサーとしては無能もいいところね。ショウビズの大切な部分を理解していないわ」
「あら、何が分かってないのかしら?」
グレイスは困り顔を作って見せた。シェリルがわがままを言うと、いつもこんな顔をして、結局は願いを聞き入れてくれたものだ。
「ランカちゃんのアイモ……あの曲のアレンジを聞かせてもらったわ。何のためにいじったの?」
「それは…フロンティアの人々を勇気づけるための編曲よ」
そう言ったグレイスの顔は貼り付いたような微笑みを浮かべていた。一転して、シェリルの病について告知した時のような、嘲りの滲ませた笑顔に変わった。
「いいえ、言葉を飾るのはやめましょう。ランカさんの感情指数を安定させるためよ」
「あんな歌、バジュラは聴きたがっているの? ランカちゃんは歌いたがっているの?」
シェリルの問は、グレイスの意表をついたようだ。表情が漂白されたように一瞬で消えた。しかし、一瞬後には、貼り付いた笑顔が戻ってくる。
「あなたにバジュラの気持ちが判るのかしら?」
「判らないわ。しゃべったこと無いもの。でも、理解しようとすることはできる。グレイス、アンタがプロデューサーとして無能なのは、全てを数字でしか見ないからよ」
「……」
グレイスは沈黙した。
「この世界で大切なことは、数字で表せない。文字でも書き表せない。感じるしかない」
シェリルは片手で髪をかきあげた。髪の生え際がわずかに汗ばんでいるのが感じられる。熱が上がったのだろう。
「グレイスがシェリル・ノームのプロデュースに成功したのは、アンタが数字を操り、数字で分からない部分を私が感じ取っていたから。私を管理していたからって、私と同じ事がアンタにできるわけ無いのよ」
「道具がよく喋ること」
グレイスの悪態は、シェリルに勝利の感覚をもたらした。
「道具が無くちゃ、お仕事が上手くいかないんでしょう? どっかで探していらっしゃい」
グレイスは身構えた。
「力ずくで事を運ぶのは趣味じゃないんだけど……」
しなやかな肢体を構成する人工の骨格と筋肉が出力を上げる態勢に入った。
その途端、フリーズしたように固まる。
シェリルの背後に舞い降りたのは、ガウォーク形態のVF-25。翼下のパイロン(固定架)に小型指向性フォールド・ウェーブ・アンプを下げている。
「機械の体も大変ね、グレイス」
シェリルはグレイスの額を人差し指で突いた。
飛びかかろうとした姿勢で固まったため、マネキンのように倒れるグレイス。地面で硬質な音を立ててバウンドした。
アンプから放たれる大量のデータがグレイスのフォールド・リンケージの入力機器を飽和させている。
中枢システムは破壊されるのを防ぐため、全ての外部入力を一時的に完全遮断した。
破壊効果はないが、足を止めるには十分以上の戦果だった。
「お仕事頑張って。悪いけど、私には私の仕事があるの」
シェリルは、スカートの裾をVF-25が巻き起こす風になびかせながら背中を向けた。そして、機械腕の掌につかまりタンデム配置の後席に乗り込む。
「いくぞ!」
前席のアルトが叫んだ。
生き残りをかけた作戦が始動する。

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2008.08.22 
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