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直江津高校の文化祭が終わった。
今、学校中を支配しているのは、お祭り騒ぎの後の虚脱した空気。
そして、後片付けにかかっている学校の中で、後夜祭に向けて生徒会と後夜祭実行委員の連中が、動き回っている。
文化祭で出た可燃性の廃棄物を校庭の真ん中に積み上げている。
後夜祭が始まると、点火して盛大に燃やすのだ。
一方では仮設ステージの上で、軽音楽部の連中が機材のセッティングをしていた。

僕らのクラスは、高校生活最後の文化祭でお化け屋敷を出し物としていた。
直江津高校創立以来の優等生にして、我がクラスの委員長・羽川翼の指揮の下、緻密に計算されたイベントは、好評を博していた。
学習塾跡地の廃ビルという設定のお化け屋敷(どこかで見たことのあるシチュエーションだ)は、学校の怪談めいた仕掛けで来る人を驚かしていた。
実際のロケーションが高校の教室なので、素材としてのリアリティは十分に持ち合わせている。
好評を博していたのは、お化け屋敷に遊びに来た生徒や来客だけではない。
運営している僕ら、級友たちからも、羽川の水際立った指揮の評判は良かった。
何しろ、あれだけの密度の出し物をこなしたのに、どこクラスよりも早く片付けが終わり、余裕をもって後夜祭に臨めるのだから。
因みに、委員長である所の羽川を補佐する副委員長は、僕・阿良々木暦だ。
学校の中では大した仕事をしてないけれど、校外の別件で忙しかったし、その別件は羽川が抱えていた問題を解決する役に立ったわけで――
僕も微力ながら、間接的ながら、高校生活最後の文化祭を盛り上げたことになるのだろう。
担任や級友の大半は知らないけれど。

「みんなお疲れ様。後は自由にしてもらってもいいんだけど、余力のある人は後夜祭実行委員会を手伝ってあげてください」
羽川の言葉で、僕の級友たちは、解散した。
教室から出る者、残っておしゃべりに興じている者。
そうした様子を見まわしてから、羽川は僕を見た。
一分の隙も無く、校則どおりに制服を着こなしている。
長く伸ばした黒髪をツインテイルにしている。
レンズの大きな眼鏡をかけていて、それがこれ以上は無いと言うほど似合っていた。きっと眼鏡メーカーの人も太鼓判を押してくれるに違いない。
絵に描いたような優等生。
誰にでも平等に優しく、面倒見が良い。
委員長の中の委員長。
眼鏡のレンズの向こうで、羽川の瞳が揺れた。
僕も、話す必要があると思っていたので、小さくうなずいた。
羽川が僕に呼びかけようと唇を開いたところで、担任の保科から声をかけられた。
どうやら、保科との話が長くなるらしい。
羽川は一瞬、僕を振りむいてゴメンと言うように頭を下げた。
僕は、また小さく頷いた。事情は了解した、と、また時間を作って話そう、という二つの意味を込めたサインだ。
羽川は、本格的に体を保科に向けて立ち話を始めた。
僕は、と言えば、教室の中を見渡した。
居ない。
教室を出て廊下を見た。
「阿良々木くん」
相変わらずクールな声だ。
振り向くと、探していた戦場ヶ原ひたぎがいた。
整いすぎるほどに整った顔立ち。
スラリとした立ち姿。
手入れの行き届いた長い黒髪は、今は、ひっつめにして後頭部でまとめている。
クラス内では、病弱な深窓の令嬢というキャラを確立して、人を遠ざけていた。
「彼女の前で、他のオンナとアイコンタクトだなんて、いい根性しているわね」
恨み言を口にしているようだが、あくまで口調は平坦だ。
そうなのだ。
戦場ヶ原は僕の彼女、恋人、マイスウィートハート――並べていて恥ずかしくなってきた。
「これでも僕はクラスの副委員長だからな。委員長とアイコンタクトぐらいするさ」
「お偉い副委員長様に失礼な事を申し上げました」
「そこまで言わなくても…って、こんな所で土下座しようとするなっ」
僕の恋人は、こういう女なのだ。
僕を苛めるためなら、自分を貶める事も厭わない。
「それはそうと、阿良々木くん」
戦場ヶ原は、髪をまとめていたスカーフを外した。黒髪が解けて、ハラリと流れる。
「約束、覚えているわよね」
「大事な事だからな」
「約束、覚えているわよね」
「だからって、2回言わなくていい。ここじゃ、アレだから……」
教室では他の生徒の目もある。
僕は戦場ヶ原を伴って、生物準備室へ向かった。

戦場ヶ原と付き合うと決めた時に、僕らの間にひとつの約束事が取り交わされた。
それは、怪異について隠し事を作らないというものだ。
幸か不幸か、僕は怪異――いわゆる妖怪やら幽霊やらと、遭遇しやすい。
怪異と関わる中で、戦場ヶ原と出会えたのだから、悪い事ばかりではないのだが。
そう、なんだっけ、こういうの。
「塞翁が馬ね」
「漢文の時間に習ったな…って、僕の心を読むのを止めろ」
「心を読んだのではないわ。顔に書いてあるもの」
「書いてない」
「実は、さっき書いておいたの」
「いつの間にっ? てか、そのフリは前にも使ったぞ」
そんな冗談を言いながら、僕らは生物準備室に入った。
ここは、僕らのクラスが文化祭の出し物に使用した衣装や、機材をしまっておく場所に指定されていた。
片付けは終わっていたので、期待通り誰も居ない。
雑然と積み上げられた荷物の間を潜り抜けて窓辺に立つ。
準備室は3階にあるので、夕暮れ時、後夜祭の準備が整えられた校庭を見下ろせる。
「先に言っておくけど、二人きりになったからといって、校内で不埒な所業に及ぶのは感心しないわ、阿良々木くん」
窓枠に寄りかかった戦場ヶ原は、のっけからかましてきた。
「心配するな。お前の評判を下げるような事はしない」
「なんだ、つまらない」
「お前は僕に何を期待しているんだ!」
「期待なんかするわけないじゃない。失望させないでくれれば、それでいいわ」
「微妙に凹む言い方だな」
「微妙なの。もっと凹むように言い直しましょうか」
「毒舌の推敲なんかするな!」
「それはそれとして、羽川さんの件、話してくれるわね?」
僕は居住まいを正した。
つい先日解決したばかりの羽川翼に関する怪異は、僕にとって重要な意味があったのだから。
「うん」

最初は今年のゴールデンウィークだった。
羽川翼は、障り猫と呼ばれる怪異に魅入られた。
怪異の専門家である忍野メメの言葉を借りれば、今風の言葉で言うところの多重人格に近いらしい。
障り猫は、羽川の深層心理に潜んでいる。
羽川が感じるストレスが高じると、羽川自身の意識を押しのけて現れ、暴れまわる。
単なる多重人格と違うのは、意識を失うほどの激しい頭痛の後に羽川の頭に猫の耳が現れ、怪異としての特殊能力を駆使するようになる事だ。
具体的には人々を襲って、その体力・精力を奪い取る。
ゴールデンウィークの時は、美しき吸血鬼の成れの果て、今は金髪の少女の形態に納まった忍野忍により、障り猫の精力を吸い上げて退治したのだ。この件には僕も積極的に関わった。
「ストレスの原因、ストレッサーって言うのかしら。家族の問題だったのね」
「ああ」
この辺の事情は、羽川のプライバシーにも関わるから、余り詳しく話すわけには行かない。
戦場ヶ原も、家庭の問題から怪異に触れた人間だから、機微は判ってくれるだろう。
無事、羽川は、いつも通りの彼女に、絵に描いたような優等生にして委員長に戻った。
障り猫として暴れまわった記憶は残っていない。いや、おぼろげながら残っているって本人が言ってたな。
事件の前と違うのは、救いの手を差し伸べた僕が、彼女の心に焼き付いていた事だった。実際のところ、僕の活躍は大したことではなかったのに。
「その時のストレッサーは家族だった」
「その時?」
戦場ヶ原は眉をひそめた。
「家族の事が原因で蓄積されたストレスは、その時に解消された」
「どうして判るの?」
「本人が……この前、再び現れた障り猫自身が、丁寧に説明してくれたのさ。にゃん言葉で」
「作者が泣いて喜びそうなぐらい親切な怪異ね」
「ああ、全くだ」
「親切って親を切るって書くわね」
「それは切っちゃダメ!」
「萌えた?」
「え?」
戦場ヶ原は、表情を全く変えずに、僕の目を見つめた。相変わらず、話がどこに飛ぶのか予測できない女だ。
「お見通しよ、阿良々木くん。羽川さん、顔は可愛いし、大人しそうに見えてワガママボディだし。あれでネコ耳が生えて、にゃん言葉を喋ったら……そうね、通常のオタクなら致死量の萌えが発生するわ。メイド服を着せたら、国が傾くほどよ」
ワガママボディだなんて、どこでそんな言い回しを仕入れてきたんだろう。
「僕はオタクじゃないし、戦場ヶ原に全身全霊で萌えているからな」
珍しく戦場ヶ原が黙った。
してやったりと悦に入っていたら、話の続きを催促された。
「この前のストレッサーは僕だった」
ここから先は、かなり言い難い内容になるが、それでも戦場ヶ原には知っていてもらう必要がある。
「羽川さん、阿良々木くんの事が好きなのね」
「なんで、それを!」
言い難い内容を、戦場ヶ原はいともあっさりと口にした。
「普通、気がつくわよ。クラスの中では地味で、顔も成績も運動も、それほど良くない。かと言って、真面目に学校行事に参加するわけでもない、何の取り得も無い男子生徒を副委員長に据えようなんて、普通なら明らかに人選ミスだわ。羽川さんがミスをするわけは無いのだから、別の意図があったとしか思えない」
ハッキリスッパリ、人選ミスとか言われると、傷つくなあ。いや、正しいんだけれども。自分でも、そう思うし。
「お前、けっこう見てるんだな。羽川のこと」
「羽川さんだけじゃないわ。誰からも距離をおこうとしたら、それなりに人間観察しておくものよ。うっかりこちらの領域に足を踏み込まれるような事態を避けたいから」
羽川が戦場ヶ原を評して、セルフフィールドの中で篭城戦をしていると言ったのだが、全くの正解だったようだ。
なんで、僕の周囲の女たちは、そろいも揃って頭が良くて、先が見えるのだろう。
先が見えていても、想定外の事態は発生する。
戦場ヶ原には僕だった。
羽川には――戦場ヶ原だった。
「障り猫が言うには、羽川としては、僕を副委員長に据えたことで、二人で過ごす時間を長くして、少しずつ愛を育んでいたそうだ。それが、戦場ヶ原、お前に横からかっさらわれた、という形になってしまった」
「横からなんて、失礼ね。私は常に正面からよ」
「うん」
こと、恋愛に関してはノーガード戦法の戦場ヶ原だ。
「たまには後ろからされるのも良いけど」
「何をっ?」
障り猫は言った。
僕が誰にでも優しいという事に羽川が気がついていたら、先手を打っていたかもしれない。
「それで、今回はどうやって解決したの?」
「前回と同じ、忍に障り猫の血を吸ってもらった」
「じゃあ、羽川さんの中の恋愛感情は消えてしまったのね」
「たぶん」
「残念?」
「……少し」
「その間(ま)が許せないわ」
「許して下さい。僕は、戦場ヶ原一筋です」
「どれくらい?」
僕は、どう説明しようか少しだけ考えた。
「障り猫が…」
「ええ」
「僕に言った。羽川と付き合えば、横恋慕のストレスは解消されるから、障り猫は消えるって」
「断ったの?」
「ああ。間髪入れずにな」
「当然」
戦場ヶ原はツンと澄まし顔を作ったが、うっすらと頬が染まっている。
と、思ったら、校庭でファイヤーが点火されていた。
その炎の色が、戦場ヶ原の白い頬に照り返している。
ちぇ、錯覚だったかな?
「それから、どうなった? 交際を断った後」
「障り猫は、もう一つ解決法があるって、言った。ストレスの源である僕が死ねば、消えてしまえば良いと」
「合理的ね」
「危うく食われるところだった」
「羽川さんに童貞を食べられちゃうところだったのね」
「間違ってないが、意味がズレてる」
戦場ヶ原が、ずいと近寄った。キスしようとする恋人のように。
「阿良々木くん。また、自分が死ねば解決するとか思ったでしょう?」
「一瞬」
僕は額を戦場ヶ原の額に合わせた。
「次の瞬間に考えた事は?」
「戦場ヶ原を殺人犯にしたくない。だから忍に助けを求めた」
吸血鬼の成れの果て、少女の形をした怪異である忍野忍は、今回も期待通りの活躍をしてくれた。
「記憶容量の乏しい阿良々木くんの頭脳でも、学習効果はあったようね」
そう、以前、同じようなシチュエーションがあったのだ。
「学習は、反復により効果が高められるわ」
戦場ヶ原は体を僕に押し付けながら、唇を耳に寄せた。
しなやかな肢体が僕の腕の中にある。迷わず抱き寄せた。彼女の重みを全身で感じる幸せに酔いしれながら。
耳元で、掠れ声がする。
「もし、阿良々木くんが誰かに殺されたら、私はどんな手を使っても、その人を殺す。覚えておきなさい」
全く、かくも物騒な言い回しで愛を囁くなんて、どんな才能なんだろう?



土曜の午後。
半日で終わった授業。
その後で訪れたのは、国道沿いにある公園だった。
緑が目に優しい木立の中、ピンポン玉ぐらいのサイズの石を四つ、ピラミッドかケルンのように積み上げて目印にしてあった。
僕は――阿良々木暦は知っている。
これは墓標だ。
あの白猫の――
羽川翼が障り猫の怪異に触れるきっかけになった猫。
車にはねられ、アスファルトの真ん中で綺麗な毛並みを血で汚していた猫。
血で汚れていない部分は白銀と呼べる程、輝くように真っ白な毛だったが、既に死んでいた。
「今更だけどね、名前をつけたんだ」
羽川は墓標に、小さな花束を手向けた。
「なんて名前?」
「レン」
「由来は?」
羽川はしゃがんで墓標に手を合わせた。立ち上がると、僕に微笑みかける。いつものように。
「阿良々木くんも、お参りする?」
「ああ。そうさせてもらう」
僕も墓標の前にしゃがんだ。ここに来る直前に、ペットショップで購入したマタタビの粉と、パックで小分けされた鰹節を墓標に振りかけてやる。
こんな真似をすると、怪異との縁を深くしてしまうかもしれない。
でも、まあ、1回ぐらいはいいだろう。だいたい、僕自身が三分の一か、半分ぐらい怪異で出来ているのだから、これぐらいの縁は、どうと言うこともない。
僕が立ち上がると、羽川はあさっての方向を指差した。
「あっちを見てて」
「ああ」
特に断る理由もないので、僕はそのとおりにした。
「今から、ひとり言を言うね。だから、質問、突っ込みは無し」
「了解」
僕の背後で羽川は独白を始めた。
「レンはね……恋愛のレンで、未練のレン」
羽川にしてはストレートな命名だ。
「そのまんまじゃないかって、思ったでしょ?」
僕の心を読むなよぅ。
「心を読まなくてもそれくらい判る」
地の文とかぎ括弧の台詞で会話を成立させるとはっ、羽川翼、侮り難し(元々、侮ってなんかいないけど)。
「それぐらい、見てたんだよ」
見てくれていたんだよな。

今年の春休み。僕にとっては地獄のような日々が続いた。
羽川がいてくれたから、僕は“こちら側”に戻ってこれた。
いなかったら、僕は文字通り消滅していた。
僕が消滅するだけではなく、最強にして最凶の怪異を解き放ってしまっていたのだろう。人を捕食する怪異を。
羽川がいたから、僕は怪異と対峙できた。
体の中に怪異を宿しながらも、こちら側に戻ってこれた。
最強の怪異も、今は人を襲うことはない。襲う必要が無くなった。

「あの時からずーっとね」
クラスの委員長として、級友たちに満遍なく気を配る羽川。
僕を見る目だけは違っていたのだった。
過去形で断言した途端、なんだかひどく切ない気分になったぜ、羽川。
「普通さ、あれだけの経験を一緒にしたら、そんな気持ちになっちゃっても不思議じゃないと思わない? 生きるか死ぬかみたいな危機を何回もくぐってきたんだもの」
僕も死にそうになったし、羽川も巻き込まれて死にそうになった。
「阿良々木くんは、そんな時でも胸とかウエストとか、パンツとか、エッチな所ばっかり気にしてたね」
「…う」
いや、それは、決して、ソコばっかり見ていたわけではなくて、ある種の偶然の作用と申しますか、生命の危機にある人間の生存本能、あるいは生殖本能に基づいた衝動と申しますか。
いやいやいや、これじゃ、まるで傍に居れば誰でも良かったみたいだな。
訂正。羽川のオッパイだから意味があったんだ。人外の存在へと足を踏み外しかけた僕にとって、彼女の温もりは何物にも代えがたい命綱だった。
羽川の機知。
羽川の優しさ。
羽川の肌の温度。
そういう所をひっくるめて、僕にとって羽川は恩人だ。返そうにも返しきれない恩を感じている。羽川が必要としてくれるなら、いつだって駆けつける。
でも…
「ね、どうして戦場ヶ原さんを好きになったの?」
質問、突っ込みは無しって言った癖に、羽川からの質問はありなの? まあ答えるけど。
「分らない。どこが好きかは言えるけど、何故好きになったのかなんて自分でもよく分からない」
羽川は僕の背後で、クスっと笑った。
「愚問だったね。恋の始まりに理由は無い…恋の終わりに理由はある」
僕の心情と、羽川の立場を見事に要約した言葉だ。
「まるで、送り雛みたい」
「え?」
「レンが…私の中のどす黒いものをみーんな、連れて行ってくれたの。送り雛に似てると思わない?」
送り雛――小さな人形に穢れを移して、川に流す風習。それぐらいは僕でも知っている。怪異に関わるようになって、少しは勉強していた。
「そうかもなぁ」
僕はしみじみと頷く。

今年のゴールデンウィーク。悪夢のような日々。
羽川翼、この上なく優しく、品行方正・成績優秀・頭脳明晰・挙措に至らぬところ無し。
羽川は頭が良過ぎる。先が見え過ぎる。だから、自分自身にさえ、自分の気持ちを上手に隠してしまう。
そんな彼女が、家族間の不和により、長い間、溜め込んでいたストレスが、怪異の形をとって現れた。
レン、と羽川が名づけた怪異・障り猫は羽川の体をのっとり、町の住人を無差別に襲った。襲って生命力を奪う。今風に言えば、エナジードレインというヤツだ。
結局、障り猫は、かつて吸血鬼だった怪異――今は僕の従者――によって、精力を吸われ消滅したように見えた。

「あの時のこと、本当におぼろげにしか思い出せないんだけど、すごくスッキリしたの。こんな言い方して、被害に遭った人には申し訳ないんだけど」
障り猫が暴れまわった理由は、羽川の内なるストレスを解消することだ。放っておけば1年間でも暴れまわると、障り猫は断言していた。それほど、溜め込んだストレスの量は膨大で、膨大だったが故に、解放された瞬間は爽快そのものだろう。
そして、文化祭直前、また障り猫が出現した。
原因は――僕だった。
羽川が助けを必要とするなら、僕はいつでも傍に駆けつける。
そう誓ったのに、僕が傍に居ること自体が羽川にとってのストレスだった。
どうして、僕は肝心なところで救い難く鈍いのだろう。
ゴールデンウィーク、羽川は僕を好きになった。
母の日、僕は戦場ヶ原から告白されて、付き合い始めた。
それから、文化祭の直前まで、僕と戦場ヶ原を傍で見ていた羽川。
その上、僕は羽川に戦場ヶ原のことについて相談を持ちかけたりしていた。
羽川のストレスは、どんどん募っていき……
「甘えちゃったのかも知れないね、レンに」
一度、障り猫という形でできたストレスの放出路は、開放されやすくなっていたのだろうか?
「あんな酷い形でなく、ちゃんとストレスを解消できるようにならないといけないのに」
「できるさ……次はできる。出来なくても、僕が駆けつける。打たれ強さは知っているだろ?」
「突っ込み禁止って言ったでしょ」
羽川は笑って言った。
「罰として、阿良々木くんに呪いをかけます」
「うわ、おっかねぇ」
「こっち向いて」
「何…っ!」
振り向くと、瞬間、唇に暖かくて柔らかくてしっとりした感触。
どアップの羽川。
キス!?
キスされてますよ!?
しかも舌まで入れてきたーっ!
「んーんっ」
反応ができないまま棒立ちになっている間に、羽川は離れた。
「戦場ヶ原さんの目がまともに見れなくなる呪い」
悪戯っぽく笑って、ぴょんと後ろに下がった羽川。
「洒落になってないーっ」
「にゃはははは。野良猫に噛まれたと思って諦めて」
「それを言うなら、野良犬っ!」
ぺろりと舌を出す羽川は、あの障り猫にちょっとだけ似ていた。
もしかしたら、障り猫は単純に消滅したのではなく、羽川の表人格と混ざり合ったのではないだろうか?
だとしたら――
それは、きっと羽川にとって良い事なのだろう。彼女なら、あの色ボケ猫も、ちゃんと手懐けて糧にできるはずだから。
どこまでも真面目で、正論を主張していた羽川。自分の中の暗い部分さえ許さない程の強さは、一方で怪異に魅入られる隙を作り出していた。隙を抑圧と言い直してもいい。
障り猫が表の人格に混ざったということは、羽川が彼女自身の邪悪な半身の存在をを許したことでもある。きっと、今後、羽川が心の暗がりから目を逸らすことは無いだろう。
「明日ね」
「ああ」
「美容院、行ってこようかなって」
もしかして、髪を切るつもり、なのか?
「いめちぇん」
羽川は、長く伸ばした三つ編みを両手でかきあげて、手を翼のように広げた。

2009.10.01 
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