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午後の授業はかったるいもの、と相場が決まっている。
一般教養・文学の授業は退屈で、アルトは窓の外を眺めていた。
美星学園の校門から、高級車が進入してきた。
校舎正面の階段前に停車すると、長身の男が降り立った。ひと目で業界人と分かる、ファッショナブルなスーツ姿。
(シェリルの関係か……)
果たして、シェリルが校舎から出て車の方へ向かう。
男はシェリルとハイタッチすると、ぎゅっと抱きしめた。
アルトの胸の中で何かがしこりのように硬くなるのを感じる。
(誰だ?)
シェリルが車に乗り込むと、男も運転席に座った。
車は滑らかにスタートして校門を出た。
しばらく校門を眺めた後、アルトは意識を授業へと無理やり向けた。
それでも何かモヤモヤしたものが心の隅に残っている。
モニターの画面にテキストを表示させると、真っ先に飛び込んできた文字が“恋”。
【恋】日本語の恋は、乞ふ、を語源としている。相手にここに居て欲しいと乞い願う心を表している。
何か気まずいものを見た気持ちになって、ページを適当にめくる。すると、次に飛び込んできた文字は“戀”だった
【恋】の古い書体【戀】の字に糸が含まれるのは、恋がもつれた糸のように解きほぐしがたい心情であることを示している。
(なんだ、これは)
テキストのページをランダムにめくる。
【jealous】は語源的にzeal(熱意)、zealous(熱心な、熱狂的な)と関係が深い。
次に見たページには
I love you
Je t'aime
Ich liebe dich
Ti amo
各国語での愛の告白のページが表示された。
(なんで、こんなのばっかり目に付くんだ?)
アルトはため息をついて、テキストを閉じる。
机の下で携帯端末を取り出した。スケジューラーが今日の約束を表示している。
テレビ局での収録が終わり、ホテルへ戻ろうとしてロビーへ出たところでシェリルは見慣れた後ろ姿を発見した。
「アル……」
制服姿のアルトへ呼び掛けようとして思いとどまる。
アルトは和服姿の女性と談笑していた。
(誰? どこかで見覚えがあるわね?)
シェリルは記憶をたどって気がついた。
(アルトにそっくり)
女性にしては長身で、アルトとほとんど身長がかわらない。年の頃は20代後半だろうか。顔立ちはアルトに似ていたが、アルトが陽だとすれば、陰の美しさ。控えめで、しっとりとした雰囲気だ。黒髪を結い上げ、笑顔でアルトを見つめている。
その視線は親しげで、シェリルの胸をざわつかせた。
(アルトに兄弟はいないはずだから、親戚かしら?)
親戚だとしても、見つめる瞳には親しさ以上の何かを感じる。
アルトを見ると、いつも着崩している制服のボタンをキチンとかけ、ネクタイも締めなおしたようだ。
「グレイス、この後、予定は入っていないわよね?」
「ええ。どうしました?」
敏腕マネージャーは、怪訝な顔をした。
「ちょっと行きたい所があるの。先に帰ってて」
「判りました。明日のスケジュール覚えていますね?」
「15時から歌番組のリハーサル」
「けっこうです」
「じゃあ、後で」
グレイスと別れると、シェリルはコンパクトで自分の服装を確かめた。
白の刺繍入りチャイナカラー・ブラウスにデニムのホットパンツ。外出時には必需品のつばの広い帽子に、目元を完全に隠すサングラス。
(そんなに目立たないわよね? 探偵ゴッコできるぐらいには)
女性とアルトはエントランスを出て車に乗り込んだ。
シェリルも慌ててタクシーを拾った。
「前の車を追って」
ロボットタクシーに命じると、了解のメッセージとともに発車した。
アルトたちが乗った車は高級マンションの駐車場に入った。
建物に入るのにもセキュリティ・チェックがあるので、シェリルが尾行するのは難しそうだ。
一瞬、グレイスのハッキング能力を頼ることを考えたが、プライドがそのアイディアを却下した。
しばらく考えていたが、今日はおとなしく帰ることにする。
ベッドに入ってからも、シェリルはアルトと女性のことを考えていた。
(ガッコの女の子に告白されても、片っ端からふってるって噂だったわよね)
そのアルトが女性に向けていた皮肉っぽさの欠片も無い笑顔を思い出すたびに、胸の奥がチリチリする。
(あんな表情、見たコトないわ。ああいうタイプが好みなのかしら?)
シェリルは自分と比べてみた。
あらゆる意味で正反対だと思う。
(万事控えめで男を影で支える女って感じ)
「私はシェリル、シェリル・ノームなのよ」
照明を落とした部屋でつぶやく。
でも、そのシェリル・ノームというブランドはアルトには通じない。それが、こんなにも不安に結びつくとは予想できなかった。
女性の姿を脳裏に思い浮かべる。薄い青灰色の和服。結い上げた黒髪。切れ長の目は、伏し目がち。
(すごい美人よね……アルトと同じ顔だもの)
アルトに問いただそうか、と思って携帯端末にアルトのコールナンバーを呼び出したが、何故か通話ボタンを押すことができなかった。
翌日、美星学園。
航空・航宙技術史の授業はパイロットコースの必修授業。
シェリルとアルトは机を並べていた。
「あら、アルト、この授業取ってなかったの?」
シェリルはディスプレイにテキストを表示させながら話しかけた。
「ああ。途中転科だから単位取れてなかったんだ」
いつもどおり、制服を着崩したアルトはすでに開いていたテキストで20世紀中葉の章を閲覧していた。
「仕事、忙しいのか?」
「ええ。今日も、午後は抜けるわ」
「昨日の男が迎えに来るのか」
いつものようにぶっきらぼうなアルトの口ぶりだが、どこか不満そうな響きが混ざっている。
「昨日? ああ、彼? 振付師よ。今日はグレイスが迎えに来るの」
「親しそうだった」
「なぁに、妬いているの?」
シェリルは嬉しくなった。
「彼、ゲイよ。中身はオネェ様ね。いいオンナよ。紹介してあげましょうか?」
「いらん。ゲイのいいオンナはボビー大尉で間に合っている」
アルトの口調に安堵した響きが混ざっているように感じられて、シェリルはまた嬉しくなった。
「アルト、昨日テレビ局に来てたでしょ?」
「え、ああ」
「あの人、誰?」
「見てたのか……知り合い」
アルトは言葉を選んだのだろうか。一瞬、返事が遅れた。
シェリルは問い詰めた。
「あれだけ親しそうにしてたから、知り合いなのは見ただけで判るわよ。どういう知り合い?」
「遠い親戚だ」
そこで講師が入ってきて授業が始まった。
歌番組のリハーサル自体は順調に進んだ。
本番までの休憩時間にカフェテリアでハーブティーを飲む。
席がエントランスを見下ろせる場所にあるので、入ってくる人たちをぼんやりと眺めていた。
これまでのシェリルは、他人との接点がビジネスに限られていた。信頼しているグレイスにしても、ビジネス上の関係には違いない。
しかし、美星学園に通うようになってから、級友という人間関係に新鮮さを覚えている。利害ではなく、一緒に時間をすごして、笑ったり、お喋りする関係。
それから、シェリルの趣味に人間観察というのが加わった。教室の窓から校庭を歩いている生徒たちを眺めて、彼/彼女が、どんな人となりなのか想像して楽しんでいる。直接の利害関係が無い、ファンでも無い人間に興味を示せるようになった。
その目で、テレビ局に出入りする人々を観察してみた。
(あっちは売り出し中のアイドルグループとマネージャー。あのコたち、番組の中だと仲良さそうだけど、実際は仲が悪そうね。さっきから全然目線を合わせない……)
これはこれで面白い。
(あ!)
そうやって見ているうちに、例の和服美女を発見した。手に持っていた巾着袋から携帯端末を取り出し、コールしている。通話はすぐに終わったようで、端末を手に持ったまま、エントランスを見ている。
5分も経たないうちに、アルトが現れた。
(!)
シェリルは思わず立ち上がった。
アルトと女性は睦まじそうに寄り添ってエントランスを出た。迎えの車に乗り込む。
シェリルは自分の携帯を取り出すと、アルトにコールを入れた。
「もしもし」
「アルト、私に説明しなければいけないことがあるんじゃないかしら?」
「……見てたのか」
「アルト」
「判った、後で説明するから。え、ああ……姉さん…いいのか? うん」
車中のアルトは隣に座っているであろう女性と何か話している。
「シェリル、仕事だったよな。上がるのは何時になる?」
「今夜8時ぐらいになるわ」
時刻を確かめると、アルトは女性に確認をとった。
「判った。仕事が上がったら、済まないが、今から言う所に来てくれるか?」
アルトは住所を口にした。シェリルが尾行してたどり着いたマンションだ。
「どこでも行ってあげるわ。納得できる説明を聞かせてくれるなら、ね」
シェリルが指定されたマンションの部屋を訪れたのは、時計の針が9時を回ってからになった。
エントランスも内部からセキュリティが解除されているので、問題なく入ることができた。
「どうぞ、お入りください」
玄関で出迎えたのは、和服の女性。
「お邪魔します」
玄関には“日本舞踊指南”の看板が掲げてある。室内はインテリアのアクセントに扇子や掛け軸といった和風の物を飾ってあった。
応接間に通されると、ソファにアルトが座っていた。シェリルに向かって、唇に指を当てて見せる。静かにしろ、のサイン。
アルトの膝で、3歳ぐらいの男の子が眠っていた。アルトは男の子をそっと抱き上げると、応接間を出た。
「おかけになってください、シェリルさん」
女性がお茶を供しながらソファを勧めた。
「初めまして。わたくし、市川静(いちかわ・しずか)と申します」
差し出した名刺には、日本舞踊の師範と時代考証アドバイザーの肩書きが印刷されていた。
「私はシェリル・ノーム。お招きいただいて恐縮ですわ」
「こちらこそ、ご足労いただいて申し訳ありません。でも、早く説明して差し上げた方がよろしいかと思って……」
静と名乗った女性は自分の素性を語った。
アルトから見て、大叔父にあたる人物の娘だという。正妻の子供ではない、庶子だった。大叔父は静が生まれてから、愛人であった静の母との関係が冷え込み、不遇な子供時代を過ごした。その時に面倒を見てくれたのが早乙女嵐蔵、アルトの父だ。
その縁でアルトとは親しくしている。
昨日、アルトと待ち合わせしていたのは静の母の命日にあたり、アルトは線香を上げるため、この部屋に来た。
「その時に、愚痴をこぼしてしまって……」
静は言いにくそうに話を続けた。
日舞の指導や、日本を舞台にした時代劇の考証家としてテレビ局に出入りしているのだが、プロデューサーの一人に付きまとわれている。そこで、アルトが恋人のふりをしようか、と申し出て一芝居うった、というのが今日の真相だった。
「本当に申し訳ありません。子供の時から気安くさせてもらって、つい甘えてしまいました。シェリルさんという人がありながら」
「!」
シェリルは飲みかけていたお茶でむせそうになった。
「アルトがそんなことを……?」
「直接は言いませんけれど」
静は微笑んだ。その様子は一幅の日本画のようで、女ながらシェリルは一瞬見とれてしまった。
「ここに居る間、子供と遊んでいる以外は、仕事の話とシェリルさんの話題でしたのよ」
「そうだったの」
「でも、ああ見えてシャイなところがあって」
「シャイと言うか鈍いと言うか」
「そうかも知れませんわ」
静は深く頷いた。
「でも、今日は、ちょっとだけ恋人のふりができて、楽しかった」
「静……あなた、もしかして」
シェリルの言葉を遮るように、静は続けた。
「伝統を守っている世界には、外からうかがい知れない事情があります。例えば……あくまで例え話ですよ。妾の娘が本家の嫡男に思いを寄せるのはタブーになることも」
「私には……想像できないわ」
家族、親戚、伝統、どれもシェリルには縁遠いものだった。
「わたくしも結婚して、子供を生んで……離婚もしましたし。いつまでも昔のままではありません」
そこにアルトが戻ってきた。
「ベッドに入れたら、ぐずって……ようやく寝てくれたよ、姉さん」
「ありがとう、アルトさん。シェリルさんには、洗いざらい説明しておきましたよ」
「う……そ、そうか。ごめん、手間とらせた」
アルトはシェリルを見た。
「納得できたか?」
「静さんに免じて、納得してあげる。夜も遅いし、失礼するわ」
静の部屋を出て、マンションのエレベーターの中でシェリルは呟いた。
「複雑なのね、アルトのお家って」
「梨園、歌舞伎の世界には、女遊びも芸の肥やし、みたいな考え方があって……俺は、そういうの、もの凄く嫌なんだが……古くから続いている家には、良くある話だ」
「ふぅん、アルト、こっち向いて」
「なんだ?」
アルトはシェリルにまっすぐ向き合った。
パン、と乾いた音が続けて二つ。
アルトの頬に往復で平手打ち。
驚いたアルトは目を丸くした。
シェリルは、アルトのネクタイを掴んで引き寄せると強く唇を押しつけた。
「んっ!……何するんだ、訳のわかんねぇ女だなっ」
アルトは赤くなった頬を撫でた。
「判ってないのはアルトの方」
「何がっ」
「ビンタ二つは、私と静さんの分よ」
「姉さんと…?」
アルトはあっけにとられた。女二人で何を話したのだろう?
「ねえ、応接間に飾ってあった掛け軸……あれは何が書いてあったの?」
「あ、ああ……あれは確か、耳成の山のくちなし得てしがな思ひの色の下染めにせむ。1000年以上昔の定型詩だ」
「意味は?」
「耳成山(みみなしやま)のクチナシで衣を染めたいものだ。耳無し、口無しで、私の思いを秘密にしてくれるだろうから……そんな意味だったと思う」
(静にぴったりな詩)
エレベーターは1階に止まった。ドアが開き、シェリルは一歩踏み出す。
後日。美星学園。
「おはよう、アルト」
「おはよう……なあ、シェリル」
「なぁに?」
「今朝のニュースでちらっと見たんだが、姉さんにつきまとっていたプロデューサー、処分されてたな。女性関係で」
「ええ、そうね」
にこやかなシェリルの表情に、アルトは確信した。
「もしかして、社会的抹殺か……どうやったんだ?」
「嫌だわ、アルト。スキャンダルで自滅しただけよ。ほら、先生が来たわ」
シェリルはテキストを表示させながら、グレイスへのボーナスを考えていた。
(いつものことながら、グレイスのハッキング能力は大したものね。仕事が早いわ)
一般教養・文学の授業は退屈で、アルトは窓の外を眺めていた。
美星学園の校門から、高級車が進入してきた。
校舎正面の階段前に停車すると、長身の男が降り立った。ひと目で業界人と分かる、ファッショナブルなスーツ姿。
(シェリルの関係か……)
果たして、シェリルが校舎から出て車の方へ向かう。
男はシェリルとハイタッチすると、ぎゅっと抱きしめた。
アルトの胸の中で何かがしこりのように硬くなるのを感じる。
(誰だ?)
シェリルが車に乗り込むと、男も運転席に座った。
車は滑らかにスタートして校門を出た。
しばらく校門を眺めた後、アルトは意識を授業へと無理やり向けた。
それでも何かモヤモヤしたものが心の隅に残っている。
モニターの画面にテキストを表示させると、真っ先に飛び込んできた文字が“恋”。
【恋】日本語の恋は、乞ふ、を語源としている。相手にここに居て欲しいと乞い願う心を表している。
何か気まずいものを見た気持ちになって、ページを適当にめくる。すると、次に飛び込んできた文字は“戀”だった
【恋】の古い書体【戀】の字に糸が含まれるのは、恋がもつれた糸のように解きほぐしがたい心情であることを示している。
(なんだ、これは)
テキストのページをランダムにめくる。
【jealous】は語源的にzeal(熱意)、zealous(熱心な、熱狂的な)と関係が深い。
次に見たページには
I love you
Je t'aime
Ich liebe dich
Ti amo
各国語での愛の告白のページが表示された。
(なんで、こんなのばっかり目に付くんだ?)
アルトはため息をついて、テキストを閉じる。
机の下で携帯端末を取り出した。スケジューラーが今日の約束を表示している。
テレビ局での収録が終わり、ホテルへ戻ろうとしてロビーへ出たところでシェリルは見慣れた後ろ姿を発見した。
「アル……」
制服姿のアルトへ呼び掛けようとして思いとどまる。
アルトは和服姿の女性と談笑していた。
(誰? どこかで見覚えがあるわね?)
シェリルは記憶をたどって気がついた。
(アルトにそっくり)
女性にしては長身で、アルトとほとんど身長がかわらない。年の頃は20代後半だろうか。顔立ちはアルトに似ていたが、アルトが陽だとすれば、陰の美しさ。控えめで、しっとりとした雰囲気だ。黒髪を結い上げ、笑顔でアルトを見つめている。
その視線は親しげで、シェリルの胸をざわつかせた。
(アルトに兄弟はいないはずだから、親戚かしら?)
親戚だとしても、見つめる瞳には親しさ以上の何かを感じる。
アルトを見ると、いつも着崩している制服のボタンをキチンとかけ、ネクタイも締めなおしたようだ。
「グレイス、この後、予定は入っていないわよね?」
「ええ。どうしました?」
敏腕マネージャーは、怪訝な顔をした。
「ちょっと行きたい所があるの。先に帰ってて」
「判りました。明日のスケジュール覚えていますね?」
「15時から歌番組のリハーサル」
「けっこうです」
「じゃあ、後で」
グレイスと別れると、シェリルはコンパクトで自分の服装を確かめた。
白の刺繍入りチャイナカラー・ブラウスにデニムのホットパンツ。外出時には必需品のつばの広い帽子に、目元を完全に隠すサングラス。
(そんなに目立たないわよね? 探偵ゴッコできるぐらいには)
女性とアルトはエントランスを出て車に乗り込んだ。
シェリルも慌ててタクシーを拾った。
「前の車を追って」
ロボットタクシーに命じると、了解のメッセージとともに発車した。
アルトたちが乗った車は高級マンションの駐車場に入った。
建物に入るのにもセキュリティ・チェックがあるので、シェリルが尾行するのは難しそうだ。
一瞬、グレイスのハッキング能力を頼ることを考えたが、プライドがそのアイディアを却下した。
しばらく考えていたが、今日はおとなしく帰ることにする。
ベッドに入ってからも、シェリルはアルトと女性のことを考えていた。
(ガッコの女の子に告白されても、片っ端からふってるって噂だったわよね)
そのアルトが女性に向けていた皮肉っぽさの欠片も無い笑顔を思い出すたびに、胸の奥がチリチリする。
(あんな表情、見たコトないわ。ああいうタイプが好みなのかしら?)
シェリルは自分と比べてみた。
あらゆる意味で正反対だと思う。
(万事控えめで男を影で支える女って感じ)
「私はシェリル、シェリル・ノームなのよ」
照明を落とした部屋でつぶやく。
でも、そのシェリル・ノームというブランドはアルトには通じない。それが、こんなにも不安に結びつくとは予想できなかった。
女性の姿を脳裏に思い浮かべる。薄い青灰色の和服。結い上げた黒髪。切れ長の目は、伏し目がち。
(すごい美人よね……アルトと同じ顔だもの)
アルトに問いただそうか、と思って携帯端末にアルトのコールナンバーを呼び出したが、何故か通話ボタンを押すことができなかった。
翌日、美星学園。
航空・航宙技術史の授業はパイロットコースの必修授業。
シェリルとアルトは机を並べていた。
「あら、アルト、この授業取ってなかったの?」
シェリルはディスプレイにテキストを表示させながら話しかけた。
「ああ。途中転科だから単位取れてなかったんだ」
いつもどおり、制服を着崩したアルトはすでに開いていたテキストで20世紀中葉の章を閲覧していた。
「仕事、忙しいのか?」
「ええ。今日も、午後は抜けるわ」
「昨日の男が迎えに来るのか」
いつものようにぶっきらぼうなアルトの口ぶりだが、どこか不満そうな響きが混ざっている。
「昨日? ああ、彼? 振付師よ。今日はグレイスが迎えに来るの」
「親しそうだった」
「なぁに、妬いているの?」
シェリルは嬉しくなった。
「彼、ゲイよ。中身はオネェ様ね。いいオンナよ。紹介してあげましょうか?」
「いらん。ゲイのいいオンナはボビー大尉で間に合っている」
アルトの口調に安堵した響きが混ざっているように感じられて、シェリルはまた嬉しくなった。
「アルト、昨日テレビ局に来てたでしょ?」
「え、ああ」
「あの人、誰?」
「見てたのか……知り合い」
アルトは言葉を選んだのだろうか。一瞬、返事が遅れた。
シェリルは問い詰めた。
「あれだけ親しそうにしてたから、知り合いなのは見ただけで判るわよ。どういう知り合い?」
「遠い親戚だ」
そこで講師が入ってきて授業が始まった。
歌番組のリハーサル自体は順調に進んだ。
本番までの休憩時間にカフェテリアでハーブティーを飲む。
席がエントランスを見下ろせる場所にあるので、入ってくる人たちをぼんやりと眺めていた。
これまでのシェリルは、他人との接点がビジネスに限られていた。信頼しているグレイスにしても、ビジネス上の関係には違いない。
しかし、美星学園に通うようになってから、級友という人間関係に新鮮さを覚えている。利害ではなく、一緒に時間をすごして、笑ったり、お喋りする関係。
それから、シェリルの趣味に人間観察というのが加わった。教室の窓から校庭を歩いている生徒たちを眺めて、彼/彼女が、どんな人となりなのか想像して楽しんでいる。直接の利害関係が無い、ファンでも無い人間に興味を示せるようになった。
その目で、テレビ局に出入りする人々を観察してみた。
(あっちは売り出し中のアイドルグループとマネージャー。あのコたち、番組の中だと仲良さそうだけど、実際は仲が悪そうね。さっきから全然目線を合わせない……)
これはこれで面白い。
(あ!)
そうやって見ているうちに、例の和服美女を発見した。手に持っていた巾着袋から携帯端末を取り出し、コールしている。通話はすぐに終わったようで、端末を手に持ったまま、エントランスを見ている。
5分も経たないうちに、アルトが現れた。
(!)
シェリルは思わず立ち上がった。
アルトと女性は睦まじそうに寄り添ってエントランスを出た。迎えの車に乗り込む。
シェリルは自分の携帯を取り出すと、アルトにコールを入れた。
「もしもし」
「アルト、私に説明しなければいけないことがあるんじゃないかしら?」
「……見てたのか」
「アルト」
「判った、後で説明するから。え、ああ……姉さん…いいのか? うん」
車中のアルトは隣に座っているであろう女性と何か話している。
「シェリル、仕事だったよな。上がるのは何時になる?」
「今夜8時ぐらいになるわ」
時刻を確かめると、アルトは女性に確認をとった。
「判った。仕事が上がったら、済まないが、今から言う所に来てくれるか?」
アルトは住所を口にした。シェリルが尾行してたどり着いたマンションだ。
「どこでも行ってあげるわ。納得できる説明を聞かせてくれるなら、ね」
シェリルが指定されたマンションの部屋を訪れたのは、時計の針が9時を回ってからになった。
エントランスも内部からセキュリティが解除されているので、問題なく入ることができた。
「どうぞ、お入りください」
玄関で出迎えたのは、和服の女性。
「お邪魔します」
玄関には“日本舞踊指南”の看板が掲げてある。室内はインテリアのアクセントに扇子や掛け軸といった和風の物を飾ってあった。
応接間に通されると、ソファにアルトが座っていた。シェリルに向かって、唇に指を当てて見せる。静かにしろ、のサイン。
アルトの膝で、3歳ぐらいの男の子が眠っていた。アルトは男の子をそっと抱き上げると、応接間を出た。
「おかけになってください、シェリルさん」
女性がお茶を供しながらソファを勧めた。
「初めまして。わたくし、市川静(いちかわ・しずか)と申します」
差し出した名刺には、日本舞踊の師範と時代考証アドバイザーの肩書きが印刷されていた。
「私はシェリル・ノーム。お招きいただいて恐縮ですわ」
「こちらこそ、ご足労いただいて申し訳ありません。でも、早く説明して差し上げた方がよろしいかと思って……」
静と名乗った女性は自分の素性を語った。
アルトから見て、大叔父にあたる人物の娘だという。正妻の子供ではない、庶子だった。大叔父は静が生まれてから、愛人であった静の母との関係が冷え込み、不遇な子供時代を過ごした。その時に面倒を見てくれたのが早乙女嵐蔵、アルトの父だ。
その縁でアルトとは親しくしている。
昨日、アルトと待ち合わせしていたのは静の母の命日にあたり、アルトは線香を上げるため、この部屋に来た。
「その時に、愚痴をこぼしてしまって……」
静は言いにくそうに話を続けた。
日舞の指導や、日本を舞台にした時代劇の考証家としてテレビ局に出入りしているのだが、プロデューサーの一人に付きまとわれている。そこで、アルトが恋人のふりをしようか、と申し出て一芝居うった、というのが今日の真相だった。
「本当に申し訳ありません。子供の時から気安くさせてもらって、つい甘えてしまいました。シェリルさんという人がありながら」
「!」
シェリルは飲みかけていたお茶でむせそうになった。
「アルトがそんなことを……?」
「直接は言いませんけれど」
静は微笑んだ。その様子は一幅の日本画のようで、女ながらシェリルは一瞬見とれてしまった。
「ここに居る間、子供と遊んでいる以外は、仕事の話とシェリルさんの話題でしたのよ」
「そうだったの」
「でも、ああ見えてシャイなところがあって」
「シャイと言うか鈍いと言うか」
「そうかも知れませんわ」
静は深く頷いた。
「でも、今日は、ちょっとだけ恋人のふりができて、楽しかった」
「静……あなた、もしかして」
シェリルの言葉を遮るように、静は続けた。
「伝統を守っている世界には、外からうかがい知れない事情があります。例えば……あくまで例え話ですよ。妾の娘が本家の嫡男に思いを寄せるのはタブーになることも」
「私には……想像できないわ」
家族、親戚、伝統、どれもシェリルには縁遠いものだった。
「わたくしも結婚して、子供を生んで……離婚もしましたし。いつまでも昔のままではありません」
そこにアルトが戻ってきた。
「ベッドに入れたら、ぐずって……ようやく寝てくれたよ、姉さん」
「ありがとう、アルトさん。シェリルさんには、洗いざらい説明しておきましたよ」
「う……そ、そうか。ごめん、手間とらせた」
アルトはシェリルを見た。
「納得できたか?」
「静さんに免じて、納得してあげる。夜も遅いし、失礼するわ」
静の部屋を出て、マンションのエレベーターの中でシェリルは呟いた。
「複雑なのね、アルトのお家って」
「梨園、歌舞伎の世界には、女遊びも芸の肥やし、みたいな考え方があって……俺は、そういうの、もの凄く嫌なんだが……古くから続いている家には、良くある話だ」
「ふぅん、アルト、こっち向いて」
「なんだ?」
アルトはシェリルにまっすぐ向き合った。
パン、と乾いた音が続けて二つ。
アルトの頬に往復で平手打ち。
驚いたアルトは目を丸くした。
シェリルは、アルトのネクタイを掴んで引き寄せると強く唇を押しつけた。
「んっ!……何するんだ、訳のわかんねぇ女だなっ」
アルトは赤くなった頬を撫でた。
「判ってないのはアルトの方」
「何がっ」
「ビンタ二つは、私と静さんの分よ」
「姉さんと…?」
アルトはあっけにとられた。女二人で何を話したのだろう?
「ねえ、応接間に飾ってあった掛け軸……あれは何が書いてあったの?」
「あ、ああ……あれは確か、耳成の山のくちなし得てしがな思ひの色の下染めにせむ。1000年以上昔の定型詩だ」
「意味は?」
「耳成山(みみなしやま)のクチナシで衣を染めたいものだ。耳無し、口無しで、私の思いを秘密にしてくれるだろうから……そんな意味だったと思う」
(静にぴったりな詩)
エレベーターは1階に止まった。ドアが開き、シェリルは一歩踏み出す。
後日。美星学園。
「おはよう、アルト」
「おはよう……なあ、シェリル」
「なぁに?」
「今朝のニュースでちらっと見たんだが、姉さんにつきまとっていたプロデューサー、処分されてたな。女性関係で」
「ええ、そうね」
にこやかなシェリルの表情に、アルトは確信した。
「もしかして、社会的抹殺か……どうやったんだ?」
「嫌だわ、アルト。スキャンダルで自滅しただけよ。ほら、先生が来たわ」
シェリルはテキストを表示させながら、グレイスへのボーナスを考えていた。
(いつものことながら、グレイスのハッキング能力は大したものね。仕事が早いわ)
2008.07.24 ▲
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